2001年4月22日
礼拝説教題 「立ち直った者たち」
イザヤ54:4〜10、ルカ22:31〜34
教会は、主キリストの体です。そして教会に属する私たちは、キリストの体にとってなくてはならない部分として用いられます。
このことは、光栄でありますが、同時に信じがたいことです。しかし神さまが
、期待しておられることを受け止めなくてはなりません。ペトロの勇ましい言葉があります。
「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(33節)。
ユダの裏切りが明らかにされ、主の逮捕が迫っているときに、なんとも頼もしい言葉です。
それとは全く別の響きを持った主の言葉があります。主は、ペトロがサタンのふるいにかけられ、試練を受け、
振り回されるとおっしゃいます。主は、自分の弱さをわきまえるようにと言われたのです。ペトロは英雄ではありません。
厳しいことが迫っているときこそ、自分の弱さをわきまえるべきです。主はさらにおっしゃいます。
「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」ペトロの勇気は、この後こなごなになっていきます。
落ちるところまで落ちたペトロを立ち上がらせたのは、この主の言葉でした。自分の勇ましさでなく、
「弱さがある、しかしわたしは祈った」とおっしゃる主の言葉が、ゆるがない真の希望となりました。
英雄ではない私たちは、サタンのふるいを跳ね飛ばせないこともあります。失敗があり、主を否む誘惑に襲われます。
しかし、私たちにもペトロのように主の言葉が与えられています。ここに立ち返れます。
この主の言葉に信頼し、立ち直るのです。主は、ここに立ち返ることを忘れるなとおっしゃいます。
主は、「兄弟たちを力づけてやりなさい」ともおっしゃいました。
これは倒れない者でなく、立ち直った者にできることです。罪や弱さに倒れていた自分を、支え、
真の希望となってくださった主イエスを指し示して、力づけるのです。
主が私たちに期待されているのは、立ち直らせてくださる、真の希望を指し示すことです。